日本での建築活動
1生駒山嶺小都市計画
現存するタウトの建築は、旧日向家熱海別邸であるが、幻の計画案、解体されてしまった建築を紹介する。
生駒山計画図
遊園施設にさらなる付加価値を上げるために生駒山上に新しいホテルと別荘の施設を構想していた。それがブルーノ・タウトが設計した『生駒山嶺小都市計画』(1933)である。ドイツ人建築家、ブルーノ・タウトは、当時、社会主義者として疑われ、ナチスから追われていたこともあり、海外の滞在先を探していた。そして、「日本インターナショナル建築会」を結成していた上野伊三郎の招きにより、1933年から1936年まで日本で活動した。上野は、留学後、ヨーゼフ・ホフマンのウィーン工房で働き、リチと出会って結婚し、帰国後京都で活動していた。上野リチは、展覧会が相次いで開催され、そのデザインが再評価されているのでご存じの方も多いだろう。
タウトは、ドイツにおいて、田園都市ファルケンベルクの住宅群や、第一世界大戦後に、労働者のために設計したジードルング(集合住宅)によって、国際的評価を得ていた。これらは、ベルリンのモダニズム集合住宅群の一部として世界遺産にも登録されている。いっぽうで、第一次世界大戦後、アルプス山中にクリスタルな建築物を建て、戦争によって分断された人々の精神をつなぐための象徴的なものとして、『アルプス建築』を構想し、一つの理想郷としての都市計画を提示している。
大軌が、生駒山嶺にホテルや別荘群を依頼したとき、タウトは、馬の背のようななだらかな稜線、大阪と奈良から見える生駒山系を見て、かつて構想した「アルプス建築」の実現を夢想したことが推察される。タウトは、依頼からごく短期間で、計画案を書き上げ、大軌に提案したという。そこには、シードルングにみられる馬蹄形の庭や城壁のような高層建築がみられる。しかし、それ以降いっこうに進む気配はなく、タウトの面会依頼に、あれこれ理由を付けて、結論を先延ばしするなどしたため、すっかり頓挫したと思われていた。
しかし、大軌はタウトの都市計画を、基本計画という位置づけにし別荘は、芝川ビルなどの意匠設計で知られる本間乙彦が担当することを雑誌に発表した。本間乙彦の別荘の建築は丸太でできたコテージ風のものだった。タウトの建築が実現しなかったのは、当時の日本人のクライアントが外国人に求めていた西洋風の建築ではなく、日本の風土に合わせた、日本風の建築を提案したことが大きいだろう。モダンな暮らし思わせる別荘ではないと、売れないので致し方ない部分もある。タウトは怒り心頭だったらしいが、日本の法律もわからず、なす術がなかったという。
タウトは、上野の案内で、桂離宮や修学院離宮、比叡山延暦寺、伊勢神宮などを視察している。それらの経験をもとに、日本の建築美についてタウトが記した本は、後に日本の建築史にも大きな影響を与えた。また、群馬県高崎にあった井上工業研究所の顧問になり、さまざまな伝統工芸のデザインを指導したが、建築はほとんど実現に至っていない。また、上野の母校でもある早稲田大学などの教職なども得られなかった。タウトは、日本の建築を知りすぎたため、まったく別の西洋風の建築を移植するのは「イカモノ」と考えていた。しかし、日本は本場から来たタウトに、西洋建築を設計して欲しかったのである。タウトは、失望のうちに、トルコにわたり、アンカラの文部省建築局首席建築家として、多くの建築を建てる。そして、そのままトルコの地で客死する。