ブルーノ・タウトと熱海
昭和8年5月から昭和11年10月の約3年強を日本に滞在し、桂離宮をはじめとする日本の伝統文化を世界に紹介した。同時に、熱海を讃え、広く世界に紹介した一人である。昭和10年(1935)4月16日でのタウトの日記の中で述べている。「熱海のはずれに錦ケ浦という名勝があり、崖上から見る海景色が素晴らしく良い。蜜柑の樹には黄色い艶やかな実がなっている南方の風物で、東伊豆の海岸はまさに日本のリヴィエラだといってよい。」と。
旧日向別邸は「熱海の家」と題し、フランスの建築雑誌に発表、論文の冒頭は、「すでに引退した老実業家日向氏の別荘は、ちょうど日本の『リヴエラ』といったような風光明媚な太平洋沿岸の、断崖が急勾配で海へ落ちかかつているようなところに建っている。」と紹介している。タウトは主に、高崎の達磨寺洗心亭に居を置き高崎、仙台などで工芸品のデザインや製作を指導、昭和11年は、熱海市春日町にブルーノ・タウト熱海の家(旧日向別邸)の地下部分を設計、監理の為に、日向利兵衛は、工事を監督するタウト夫妻のために、上多賀の民家を借りて泊まれるようにしたので、昭和10年、11年と2回にわたって熱海に滞在している。始めての来熱、4月16日~4月19日。
第一回滞在 1935年7月19日~8月4日、8月6日から8月26日、8月28日~9月9日。
この間、8月7日多賀の大工に机と椅子(共に現存)を作られた事が記録されている。
(日向氏は、同時期、上多賀にも別荘を建築中、―現在の「多賀そば」の建物―がそれで、もとは、函南の軽井沢の名主、大井(渡邊)五左衛門の屋敷だったものを解体・移築したもので、江戸時代の建物と想像される立派な木組みの壮大な屋敷。)
第2回滞在 36年4月2日から4月26日、9月25日には完成確認の為に来熱している。
その後まもない 10月15日には離日しトルコへと旅立った。 1938年12月 58歳で逝去。