タウトの来日

上野伊三郎(建築家)は、「日本インターナショナル建築会」を結成し、広く国内外での建築運動を行った。その一つに、ウィーン滞在中に得た海外でのネットワークも駆使し、外国会員にブルーノ・タウトやE.メンデルゾーン、J.ホフマン、P.ベーレンス、W.グロピウスなどを加えて19298月には機関誌『インターナショナル建築』も創刊するなどの活動がある。
一方、ブルーノ・タウトは当時、ナチスより左翼系の進歩的な建築家としみなされていた。怪火により国会議事堂が炎上した原因を、ヒトラーは共産党員によるもと決め付けて弾圧にかかった。逮捕リストに載っているとの情報を得たブルーノ・タウトは危険を察知して日本への亡命を図ることとなる。

 

1993年3月にベルリンを離れ、同時にモスクワを離れたエリカと共に、ボーナッツの助けをかりて日本へ旅立っ。以前より交流していた「日本インターナショナル建築会」の招きに応じたいとの思いもあり決意しのであった。スイス→フランス→ギリシャ→トルコ→ソビエトを経て →5月3日福井県敦賀港(つるがこう)に入港した。
敦賀港は、1912年にはシベリア鉄道を利用して、ヨーロッパの各都市を結ぶ拠点港となり、欧亜国際連絡列車が運行され新橋駅(東京)と結ばれ「東洋の波止場」として繁栄していた。
ブルーノ・タウトと日本の出会いであった。タウトは述べる。近づく日本を天草丸から眺めながら・・・。ウラジオストック~敦賀間の連絡船天草丸は、ゆっくりと敦賀港へ近づいていった。船上に立ったタウトは、初めて見た日本の印象を次のように日記に記している。「昼、遥かに日本の海岸を望み見る。やや近づくと緑の山々。これまで見てきた景色とはまるで違った新しい国土だ。雨、なにもかも灰色に被われている。やがてまた緑の陸地が見え、前方には湾、そのうしろの明るい空、松の生えた島々、間もなく人港である。多彩な色、緑、なんという景色だろう、かつて見たことのない美しさだ。虹のように輝く水、まったく新しい世界である。敦賀湾、赤と白の閃光を放つ二基の燈台。敦賀の街が低く見える。その前方には村落、一面の銀鼠色、ところどころに輝くばかりの白。・・・・ 」  「〔日本 タウトの日記〕昭和8年(1933)年511日、篠田英雄訳」

「日本インターナショナル建築会」から、上野伊三郎、中尾保、中西六郎が出迎えた。翌日は京都で大丸百貨店社長・下村正太郎の出迎えをうけ自邸に招かれている。翌日の54日はブルーノ・タウトの53歳の誕生日。上野伊三郎の案内で桂離宮を訪れることとなった。

*ブルーノ・タウト本来の目的地はアメリカで、日本は10日ほどの滞在予定であったが予定を大きく上回り3年5カ月の滞日となった。