温泉番付 と 大湯温泉地区の衰退

温泉番付

温泉番付での熱海は行司役

江戸から明治にかけて、相撲の番付にならった「温泉番付」が江戸や京都、有名温泉地でつくられました。

相撲の「江戸番附」が初めて発行されたのは、1757(宝暦7)年10月場所であった。江戸時代、将軍の信頼を得た熱海は、一貫して行司を務めている。見る人を納得、権威づけるには行司、勧進元、差添が認める名湯、別格な温泉地でなければならない。徳川家康愛顧の温泉地で、将軍への御汲湯も行ってきた熱海湯はその条件を十分備えていた。

大湯温泉地区の衰退

人気の熱海温泉を支え続けてきた江戸時代も明治時代となり、新政府関係者や内務省・宮内省などの支援を背景に、江戸時代までの「湯治場」から「保養地」へと再編され、温泉(地)利用の方向へと大きく変化していきました。
変化の第一は、大湯利用の支配者的集団であった「湯戸」特権が解体されていったことです。これにより、河原湯など江戸時代以来の七湯の利用者や、東京や横浜などから熱海に移ってきた新興営業者による土地の買収、温泉旅館の営業が開始され、勢いづきその所有権が移っていきました。

それに伴い、湯戸、湯株、湯坪などの既得所有、利用の権利関係が複雑化し、湯株は外来者を含む新興旅館の手に移っていきました。

大湯温泉地区の衰退の背景には、肝心な大湯や他の泉源の湧出量が減少し続けたことも原因しました。そんな事から古く開発しつくされ、手狭になった大湯温泉地区から、交通の便が良く開発余地のある駅前温泉地区へとその中心が広がることとなっていきました。