温泉番付 と 大湯温泉地区の衰退
温泉番付
江戸時代は、相撲の番付にならって歌舞伎役者や落語家の番付、花魁の番付とか、園芸植物の番付などが作られました。いわば現在の人気ランキングといえます。番付表はの半分は実用ガイドとして、半分は遊戯的意味合いで 江戸後期~明治時代に江戸や京・大坂で多くの版元から出版されました。 当時、相撲の最高位は大関で、横綱の番付最高位は明治中期以降です。 相撲は神事と、興行・娯楽の要素を兼ねていることから、相撲の入場料収入の一部を寺院・神社の建立・修繕のために寄付していました。 その興行主が「勧進元」、興行の各種費用を出す出資者が「差添」、 行司は土俵上で神事を執り行う司祭・進行役・審判です。勝負を裁く立行司(行司の最高位)は、大関に匹敵する高い権威でした。 温泉番付では、中央部に「勧進元」「差添」「行司」として名を連ねています。力士の序列の外にある「別格」として権威ある温泉地でした。これらは宗教的意味合いが強いですが、 熱海温泉の名が多くの番付に見られるのは、徳川家康がこの湯を特別に愛して何度も湯治に訪れ、その後も歴代将軍に熱海の湯を江戸城まで運び献上した「御汲湯」が恒例化したことから別格扱いされたからです。また、 明治後期の番付で熱海・箱根湯本・伊香保が行司役に配されているのは、当時この3か所が、新たな権力者となった薩長を中心とする明治政府や軍の要人の別荘地となったことが大きく関係しています。 江戸期も明治期も時代の権力者が愛する温泉地となる傾向があるようです。
大湯温泉地区の衰退
人気の熱海温泉を支え続けてきた江戸時代も明治時代となり、新政府関係者や内務省・宮内省などの支援を背景に、江戸時代までの「湯治場」から「保養地」へと再編され、温泉(地)利用の方向へと大きく変化していきました。
変化の第一は、大湯利用の支配者的集団であった「湯戸」特権が解体されていったことです。これにより、河原湯など江戸時代以来の七湯の利用者や、東京や横浜などから熱海に移ってきた新興営業者による土地の買収、温泉旅館の営業が開始され、勢いづきその所有権が移っていきました。
それに伴い、湯戸、湯株、湯坪などの既得所有、利用の権利関係が複雑化し、湯株は外来者を含む新興旅館の手に移っていきました。
大湯温泉地区の衰退の背景には、肝心な大湯や他の泉源の湧出量が減少し続けたことも原因しました。そんな事から古く開発しつくされ、手狭になった大湯温泉地区から、交通の便が良く開発余地のある駅前温泉地区へとその中心が広がることとなっていきました。
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