今井半太夫と噏滊館

江戸時代の熱海温泉を語る上では、代々に渡る名主・今井半太夫を外すことがはできません。江戸の時代より卓越したリーダーシップを発揮して熱海に貢献し続けてきました。歴代を通して村人の窮状を救い、時として熱海温泉の新しい産業を開発し、誇りある観光地、保養地へと貢献してきました。

江戸時代の貢献から明治時代にはいり、政府の要請「噏滊館建設への協力」を受けた半太夫は、代々の一等地である大湯の土地と、大湯間欠泉の権利を政府に委譲し貢献しました。そして完成後には「温泉取締所」も運営を担いました。「温泉取締所」では温泉宿の浴客から徴収した温泉料で、温泉場の整備や改善、衛生管理なども行ないました。しかし、政府の肝いりでのこの療養施設、一時は隆盛を極め貢献しましたが、大湯間欠泉湯量の減少と利用者の減少から、明治24年(1891)に温泉業者に払い下がられ事態となり、その後気象観測所の設置を義務づけられるなど多くの問題を抱えました。そうした事の対応の為に国への支援要請を行うも、その多くが受け入れられぬまま噏滊館は大正9年(1920)焼失してしまいました。一貫して関わってきた今井半太夫の名は以降表に出ることありませんた。

4代将軍家綱の時代から、熱海の湯が江戸城まで運ばれたとされています。 熱海村の名主今井半太夫の『熱海名主代々手控抜書』では「御汲湯御用ハ 寛文年中相勤候由申傳ヘ有之」とあり、寛文年間(1661~73年)には 「御汲湯」と称して、熱海の湯を江戸城まで運び、将軍家に献上するように なったようです。
 8代将軍吉宗の時には、享保11年(1726年)から9年間に3643樽が運ばれたと 記録が残っています。(『熱海名主代々手控抜書』より)最初は陸地による 運搬だったものが、その後は網代からの押送り船による海上輸送に代わったと されています。 10代将軍家治の時には、天明4~5年(1784~85年)の2年間に229樽もの湯が 江戸城まで運ばれました。記録によると、熱海から運ばれた湯はまず物資が集まる 江戸橋に到着、その後、南伝馬町の人足によって江戸城内に入り、一時的に倉庫の 役割もあった御春屋(おつきや)に運ばれたとされています。