大湯間欠泉

熱海の温泉史は大湯の歴史でもあります。泉源が浅く自噴していた熱海の温泉であるが、利用者が増えるに従い開発が盛んとなる中、明治に入り急激にその量を減らし、熱海線開通で賑わうなか完全枯渇となった。

世界三大間歇泉とまで謳われ、江戸時代には一日に8回噴出していた大湯間歇泉は、1884年(明治17年)には一日6回にまで数を減らしていたが、1905年(明治38年)5月1日には一日4回8分、5月20日には4回4分、5月26日には3回6分と減衰を見せ、1911年(明治44年)11月には2回3分まで減衰した。湧出量も、1905年(明治38年)に一日1,200石だったのが、1911年(明治44年)には600石に半減した。

県は新規源泉を埋立させたり、源泉開発を認可制にし、違反罰則強化した取締規則を制定、「区有温泉」制度導入など対策を行たが、低下し続けた。

1921年(大正10年)- 1923年(大正12年)に、再び大湯間歇泉の減衰、県は1922年(大正11年)に行政権限を強めた取締規則改正を行う。1923年(大正12年)5月に他の源泉の湧出制限を行い、熱海温泉全体の7,000石のうちの3,000石を減らすほどの制限を行うも、一日1回の噴出と100石の湧出量を回復にとどまった。

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では津波被害など被害を受けたが、逆に大湯をはじめ源泉の湧出量は一時的に急増したが、更に半年後では湧出量が減少し始めた。。

1925年(大正14年)3月25日に国鉄熱海線開通で賑わうも大湯間歇泉が枯渇し、復活工事を試みるも失敗、遺跡としての保存となった。